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気付けない人は何が足りないか [勉強の役割]


言われたことをきちんとやる。
子供の間はそれで良いのかもしれませんが、大人になったときに求められるのは、自分で行わなければならないことを自分で決めて行動する姿勢です。
人が成果を上げるプロセスは大抵以下の四段階に分けて説明できます。
第一段階は、「気付く」です。
そして、それに対して働きかけを行うことを決める自分がいます。
すなわち、第二段階は、「決める」ことですね。
さらに、行動に移すのが、第三段階の「動く」。
通常、それを継続して初めて成果が出ます。
ですから、「継続する」というのが最後の第四段階となります。
まとめるとこうなります。

気付く→決める→動く→継続する

何かをしようと決める自分。
実際に動こうとする自分。
続ける自分。
それぞれの自分自身は「気付いた」自分自身の延長線上にいるわけで、これらの過程の中でも特に重要なプロセスが「気付く」ことだというのはお分かりいただけるかと思います。

その「気付き」の力を高めるためにはどうすればいいのか?
この問題を教育現場の多くの人間はあまり深刻に考えていないような気がします。
教育は与えることが当たり前になりつつあるんですね。
「気付き」力を高めようという発想が抜け落ちてしまうのです。
ところが、この「気付き」の能力の有無。
会社で部下の指導を行う課長とか、そういう立場の人にとっては切実な問題となっています。
部下をお持ちの方ならお分かりになると思いますが、ぱっぱっぱっと気付いて行動してくれる部下がやはり優秀なわけです。
つまり、社会で求められている必須の能力の一つと言えます。
社会で自立出来る力を育てるのが教育の責務ならば、この能力を高めてあげることは教師として当然求められるべき役割であるはずです。
いえ、私の意見では、教育というのは、かなりの部分でそのために存在していると言っても過言ではありません。
そのためというのは、「気付き」の力を高めるためということです。
それなのに、なぜそれがおざなりになってしまうのでしょうか?
おざなりになってしまう理由を考える前に、そもそも「気付き」の力を支える要素は何なのか?という部分からお話をしてみたいと思います。

私が考えるに、「気付き」の力は大きく二つの要素から成り立っています。
ここでは仮に右脳的要素、左脳的要素と名付けることにしましょう。
一般的な言葉を用いるなら、右脳的要素を状況把握力、左脳的要素を課題発見能力とでも呼ぶのでしょうか。

まず、「気付き」の力を構成する要素の一つ目。
右脳的要素について。
これは言うなれば、直感的な「気付き」力です。
頭で考えて気付くというレベルではなく、見た瞬間に閃くような気付きです。
横に広く、縦に浅いイメージ。
落ちているゴミに気付くとか、日常の些細なことに対する気配りにおいて発揮される力です。
それに対して、左脳的要素とは何か?
一言で表現するならば、論理的な「気付き」力です。
見た瞬間に閃いて、瞬時に取るべき行動を選択するようなタイプの気付きではありません。
縦に深く、横に狭いイメージです。
例えば、「なぜ空き缶は丸いのか?」このように本質的な部分への問いかけから思考が始まり、「なぜ?」「なぜ?」と思考をより奥深くまで追及していくことで得られる「気付き」を指します。
この二つの要素である右脳的要素、左脳的要素のどちらが大切ということではありません。
どちらも重要なんです。
そして、教育において求められるべき重要な役割はこの二つの「気付き」力を高めていくことです。

同じ「気付き」力ですが、それを右脳的要素、左脳的要素と分けた場合に、私はそれぞれの力を高めるために必要な指導を別の次元で考えています。
まず、右脳的要素。
こちらは普段の躾によって高めていきます。
例えば、子供達は何かをしてもらっていることに対して「ありがとう」とあまり言えません。
常識のない社会人も同様です。
残念ながら、私の教室にアルバイトとしてやってくる多くの大学生も初めはそうでした。
彼らが「ありがとう」と言えない最たる理由は何か?
見た限り、人格的に問題のある大学生はいなさそうです。
それなのに言えない。
今では私の下で働いたことのあるほとんどの人間は、私が食事に連れて行った日の翌日までには必ずお礼のメールをしてきます。
でも、最初はそれができない。
なぜなのか?私はこれが不思議で仕方ありませんでした。
彼らと話していて、やっとわかったことがあります。
何のことはない。
彼らに悪気は全くなく、「してもらった」自覚がなかったんです。
よく考えてみれば、これは当然の話だったんですね。
アルバイトとしてやってくる彼らの多くは20歳未満。
食事代も、家賃も、学費も、そのほぼ全てを親が出しているわけですから。
与えられることが当たり前になっているから、会社で上司が食事代を払ってくれることも当たり前になっていたんです。
要するに、「してもらった」ことに対する気付きの欠如があったということ。
その視点に気付いてから、私は自分の教室運営を再度見直してみました。
そしたら、あるある・・・。
出来ていないのはお礼ばかりではありません。
椅子をひかない、ゴミを拾わない、靴をそろえない、ごめんなさいを言えない・・・
多くの基本動作が出来ていないことにショックを受けました。
最もショックだったのは、その環境を作り出しているのは自分自身だったということ。
つまり、私自身にそういう姿勢が欠如していたのです。
私が第一に職場のリーダーとして自立出来ていなかった。
部下に対して「ありがとう」の気持ちを持って接せていない部分がたくさんあったんですね。
動いてもらうことが当たり前と考えている自分がそこにいました。
で、何から変えたか?
まずは自分自身の姿勢です。
「ありがとう」、「お疲れ様でした」この二言を忘れずに言うようにした。
身の回りの整理整頓や職場の清掃をこれまで以上に心がけた。
(それでもまだまだでしたが・・)
その後、職場の躾を徹底しました。
具体的に言えば、挨拶を変えた。
靴をそろえさせるようにした。
お礼を言わせるようにした。
この3点です。
挨拶というのは、言うなれば日常で頻繁に遭遇する「気付き」の瞬間です。
相手の存在に気付くことでなされる行為ですから。
当たり前のことと馬鹿にせず、これをきっちり出来るチームを作ろうと考えました。
結果的に、私の言うところの右脳的気付き力のレベルは職場としてかなり底上げされました。
例えば、ゴミを拾ったり、寂しそうにしている子供にすぐに気付き、声をかけに行ったり、こういうことをもう一段高いレベルで行える組織になったんですね。
この出来事以降、私は確信を持っています。
「気付き」の力を高めるための要素の第一は日常の躾の習慣によって養われると。

もう一点。
今度は左脳的要素です。
これはどのようにして高めるか?
決まっています。
学問によって高めるんです。
具体的には論理的思考能力を高めること。
さらに言えば、数学や理科をしっかりやること。
過去の記事でも明らかにしてきましたが、論理的思考能力を高めるための方法は数学や理科に限りません。
トレーニングに適した科目が理数というだけのお話です。
別に理数の勉強をしなくても、日常の些細な事象に対して、「なぜ?」という問いかけを行い、それに対して思考を深めていくことで訓練をすることが出来ます。
先程、挙げた例もそうです。
なぜ、空き缶は丸いのでしょうか?
四角の空き缶の方が運びやすいと思いませんか?
このように身の回りにあるもの全てが、思考のトレーニング材料となります。
左脳的要素による気付き力。
この分野でのプロフェッショナルは、大学教授を初めとした研究者と言えるでしょう。
なんらかのテーマについて、「なぜ?」という問いかけを行い続けるのが彼らの仕事だからです。
残念ながら、あまり勉強をしたことのない人は、この点における思考の粘り強さに欠けるケースが多いです。
思考の粘り強さに欠ける人は当然ながら、この点における気付き力も弱いです。
学歴はなくても、頭の良い人は確かに存在します。
そういう人は先に挙げたように、日常の物事すべてに「なぜ?」と問いかける習慣を自然と身につけたことでしょう。
でも、題材の何もないところから、そういう思考を出来る人は稀です。
余程、追い詰められている人でなければそこまで深い思考は求められないでしょう。
普通の人は数学や理科の中にある特定の題材(要するに、テキストなどの問題)を使って思考力を高めるべきではないでしょうか?というのが私自身の見解です。
その際、ただ問題を解かせるのではなく、興味を持たせるように上手く導きながら指導していくのが各教科の教師に求められる重要な役割ですね。
※たまたま、とても良い記事を私が過去に指導した講師が紹介してくれました。
私の考える教育の理想形の一つがここにあります。
(東大合格激増させた灘校伝説教師の授業は文庫本一冊読むだけ)
http://tinyurl.com/4h93ww3

とにかく、躾と学問という二つの手段によって、気付き力は高めることが出来るというのが今回の主張です。
両方とも、教育が果たすべき役割なのですから、そうした意味で、教育と「気付き」の力の間には密接な関係があるという事が出来そうですね。
有名大学の学生がある程度優秀なのは自明の理なのです。
ただ、躾が不十分な学生が多いのも事実なので、この点、指導の余地ありですが・・。
体育会系の学生が好まれるのは、こうした点にも理由があるのではないかと考えています。
いかに躾を行えない大人が増えたかということですね。

3つの人生戦略 [勉強の役割]


将来、安定した生活を送りたいと思えば、何かしらの資産がなければなりません。
その資産を手に入れるために日々頑張って生活をしているわけです。
では、その資産とはいったい何なのでしょう?
究極的には3つしかありません。
その3つとは、「お金」、「能力」、「信頼」です。
逆に一人の例外もなく、失い続けている資産が「時間」となります。
「時間」だけは増やすことが出来ません。
その大切な「時間」という資産を上の3つに変えてゆくのが、人生における目的の一つです。
今日はこの事についてお話をしていきたいと思います。

資産は利潤を生みます。
例えば、10億円を持っていて、年率1%で運用出来れば年収1000万円です。
普通に暮らすにはこれで充分ですね。
利子を生み出すほどのお金はなくても、貯蓄を取り崩しながら生活する方法もあります。
先に、その資産の中身を、「お金」、「能力」、「信頼」と定義しました。
「お金」についてはこれで説明が終了します。
それを充分に持っていれば、将来の安心につながるというわけです。
では、次に「能力」についてです。
これも難しくありませんね。
例えば、日本一経済学に詳しければそれだけで食べていけます。
例えば、プロ野球で活躍できる選手を育てられる能力があれば・・
例えば、人をマネジメントするのが得意であれば・・・
と、自分の能力次第で安定した生活は得られるわけです。
学校の勉強というのは、この面における投資ですね。
「お金」と「時間」という資産を、「能力」に変えるのが学業の本質です。
成功体験なども広い意味で「能力」の一部と考えることが出来るので、ここに含まれます。
なぜ、勉強をするのか?
その答えの一つはここにあります。
「お金」、「能力」、「信頼」の中で最も投資対効果(ROIと言います)が高いのが「能力」だからです。
「お金」は銀行に預けても、たいして利子を得られませんが、「能力」が生み出す利子は青天井です。マイクロソフトのビルゲイツなど、事例には事欠きませんね。
さて、上記二つについてはあらためて説明するまでもなかったかもしれません。
しかし、多くの人が見逃している第3の自分への投資方法があります。
「能力」ほどではありませんが、3つの中では「能力」に次いで投資対効果の高い方法です。
それが「信頼」。
どういうことか説明させていただきます。
たいして「能力」もないのに、他の人よりも年収が高い。
特に50代、60代くらいでこういう人はたくさんいるはずです。
私はその年齢ではないので、あくまでも推測ですが、この点に異論のある人はいないと思います。
そうした人たちは「お金」か「信頼」という資産で食べているのです。
例えば、大卒で大手企業に就職し、派手さはないが確実な仕事を40年続けてきた営業課長。
例えば、優秀な親友から誘われ、その友人の会社経営を助けている経理部長。
例えば、20代で司法試験に合格した60歳の弁護士(※「能力」とも考えられます)。
要するに、「能力」的には他の人と変わらない(あるいは劣っている)にも関わらず、周囲の人や社会からの「信頼」があるために他の人よりも年収を得ているケースです。
よく「人脈を大切にせよ」とか言われますが、他の人からの「信頼」があれば、自分の力量以上の収入を得られます。
さらに、司法試験、東京大学卒業、ハーバード大学MBAなどの資格は、それを持っているだけで相手からの「信頼」を高める効果があります。
しかし、そうした資格による「信頼」効果には限界があります。
やはり長期的な人間関係という「信頼」には勝てないでしょう。
ただ、ホームレスの友人が100人いる、と社長を務める友人が100人いるのとでは、同じ人間関係でも質に雲泥の差があります。
そういう意味では、付き合う相手は非常に大切ですね。

これまで、3つの資産について確認してきました。
では、どのように生きるのが良いのでしょうか?
両極端な二つのケースを見てみます。

①とりあえず、何をしたいのかもわからないし、自分の「能力」に自信がないA君の場合
→「お金」+「信頼」を貯蓄しながら、自分の「能力」を活かせる機会を待ちます
②大きな夢もあるし、自分には並以上の「能力」がありそうな気がするB君の場合
→30代までは、得た「お金」も「信頼」も「時間」も全て「能力」に投資します

まずは①のケース。
僕はよく20代、特に大学生には言うのですが、やりたいことがわからないのなら、とりあえず必死になって「お金」を貯めておけば良いのです。
就職した最初の会社はなるべく辞めないようにします。
必死になって、「お金」を貯めることを考えれば、結果的に良い仕事をします。
良い仕事は会社からの「信頼」につながり、そこから新しいチャンスが生まれます。
自分の「能力」を活かした仕事など、そう簡単に見つかるはずはありません。
そうした意味ではこれが最も現実的な選択肢です。
転職をすれば、それまで培った「信頼」という資産は大きく傷つきます。
ネガティブな退職をした場合、これまで「時間」を投資して得た「信頼」という資産価値はゼロになってしまいます。
転職をしてしまうと、年収が大幅にダウンする人が多いのはこのような理由にもよります。
「能力」に自信のない人にとって、安易な転職は絶対にタブーなのです。
次に、②のケース。
転職には、上記のようなネガティブな一面もあるのですが、新しい職場で色々なことを学べるというプラスメリットもあります。
言うならば、「信頼」という資産を失うかわりに、新しい職場で「能力」を得ることが出来るのです。
得た「お金」を学校に行くなどして、自分に投資すると同時に、色々な職場で新しい経験を積むのも一つのやり方でしょう。
B君の場合、自分の「能力」に集中して投資をしていく生き方が一番効率的かもしれません。

以上、3つの資産についてみてきました。
最後にリスクについてお話をします。
これは、投資の基本なのですが、選択と集中を行った方が投資効果は大きいです。
例えば、A株が最も騰がると思えば、全財産をA株につぎ込んだ方が稼ぎは大きいでしょう。
しかし、通常こういう投資は行いません。
なぜなら、そこにはリスクが存在するからです。
同様に、「お金」、「能力」、「信頼」、それぞれの資産にもリスクが存在します。
「お金」の場合。
インフレが起きて資産価値がゼロになる可能性があります。これは過去の人類の歴史を振り返れば珍しいことではありません。
もっと単純に、盗難にあう、詐欺にあう・・などのリスクも存在します。
「能力」の場合。
少し極端な例ですが、翻訳コンニャク(これを食べれば、誰でも外国語がぺらぺらになるドラえもんの道具)が発明されれば、これまで語学を必死に勉強していた人の知識はムダになります。
それは架空の話でしょ!と馬鹿にしてはいけません。
例えば、速記。
録音技術が進歩した昨今、速記が出来るだけで食べていける人はほとんどいないでしょう。
このような例には枚挙に暇がないのです。
そして「信頼」。
これも、それだけでは不安です。
何十年も勤めている会社が倒産したらそれまで、という人は珍しくありません。
倒産しても、「お金」か「能力」があれば食べていけますが、両方なければ悲惨です。
このように資産というのは、持っていればずっと安心という性質のものではありません。
50代も過ぎれば、3種の資産をバランス良く貯蓄しているのが理想的です。
しかし、それを得るために使える「時間」は限られています。
失敗が許される30代までは、どれかに集中した方が得られる資産は大きいものとなります。
自分自身がどういう生き方をしたいのかと合わせて考えるべき問題です。
・馬車馬のように働いて「お金」を貯めるのか?
・自分を信じて努力を続け「能力」を磨き上げるのか?
・愚直なまで誠実な人柄を貫き通し「信頼」を得るのか?
じっくりと自分自身と向き合いながら、考えるべき問題であり、これこそ人生戦略です。
(※戦略とは目的達成の手段の最適化のことを言います)

ここに書いてあることは子供にはまだ理解できないでしょう。
こうした原理原則をいかに噛み砕いて子供に伝えていくのか?
親の指導力が問われる場面でもあります。

色々な事を思いつく能力 [勉強の役割]


こんにちは。
今日も「発想力」についてです。
学生時代に勉強面でさして脚光も浴びなかった人が、社会に出て活躍することがあります。
活躍するだけではなく、「頭がいい」と周囲の人に言われる人がいます。
そんなとき、その人は決まってこう言います。
「いやいや、学校の成績はいつも悪かったんですよ。」
こうした出来事がなぜ起こるのか検証しましょうというのが、ここ最近の記事です。
なぜこんな事を書くのか?
先の議論が行き着く先のひとつに「学校の勉強には意味がない」というものがあります。
そうは言わないまでも、そう考える大人は意外に多いです。
大人が内心そう考えているのに、子供が自分から積極的に勉強をするはずがありません。
子供は親が考えているよりもずっと親の事を見ています。
だってそうでしょう。
いくら小学生、中学生と言ったって同じ家に暮らしているわけですから。
本音はいつまでも隠しておけないと知るべきです。
では、どうするか?
勉強の有意味性について大人が理解するしか仕方ありません。
そのためのブログですし、そのスタンスは初回から一貫しています。

少し復習を行います。
なぜ大人と子供では、「頭のよさ」の実感がずれるのか?
その理由の一つ目が「ロジカルシンキング」でした。
「ロジカルシンキング」については、中学生まではあまり問われません。
高校数学で主に鍛えられる能力なのですが、高校数学を大学受験レベルまでやりこむ学生は意外に少ないです。
中学生までの数学で重視されるのは、計算力です。
計算力がある=中学の数学の成績が良い=ロジカルシンキング能力が高い
とはなりません。
ロジカルシンキングが出来ると、社会では「頭の切れる」人材とみなされますが、中学数学はその有無を証明しません。
中学数学は高校数学を理解し、ロジカルシンキング能力を高めるための準備期間と位置づけるほうがその役割を正確に表している気がします。
計算が早いというだけで「頭が切れる」とは言われません。
第二に、コミュニケーション能力の問題を取り上げました。
大前提として、日本語を正しく理解できる能力(あるいは外国語)が必要であり、それを学ぶのが国語(英語)です。
しかし、コミュニケーションは言語によってのみなされるわけではありません。
相手の言葉にならない感情までも察し、それに対応の出来る人間が社会では求められています。
それが出来ないとデキナイ奴とか変わり者扱いされてしまいます。
この点でのギャップが、誤解を生む二点目のポイントです。
この二点で充分なようですが、まだ足りません。
なぜなら、社会には、ロジカルに物事を考えることも出来なくて、人とのコミュニケーションも苦手だけれども、「頭が良い」とみなされる人間がごく少数ながらもいるからです。
それが、どんな人か想像してみてください。
もしかすると、科学者とかコンピューターの技術者をイメージされるかもしれませんね。
しかし、そうした人達ではありません。
ロジカルシンキングが出来なければ、検証能力はありません。
どういう事かといえば、アイデアは出せてもそれが正しいかどうかを試す力がないということです。
ですので、こうした人は上記の職には就けません。
僕が思うに、こうした人は芸術家などアーティスティックな世界にいるような気がします。
お笑い芸人とかも含まれるかもしれませんね。
例えば、松本人志さん。
彼のロジカルシンキング能力やコミュニケーション能力を度外視して考えても、「頭がいい」と考える人が多いのではないでしょうか?
次から次へと面白い事を思いつく姿を見て、「松っちゃんは頭がいいなぁ・・」と感心する友人の姿を見たのは一度や二度ではありません。
こういう人たちをどう考えればいいのか?
身も蓋もない言い方ですが、「天才」として特別扱いでいいんじゃないかな?と僕は思っています。
その変わりこういう人は滅多にいません。
身の回りにもいませんし、マスメディアの中にもほとんどいません。
あまりに希少なので、例外として考えて支障はないと思います。
そういう風にはなれないという存在がいることを知ることも大切です。
その一部の例外を普通の人が目指そうとすれば、もちろん不幸なことになります。
前回書きましたが、「発想力」というのは、応用力なので、その前提となる知識や計数能力が高ければ、「発想力」や「創造力」は自然と身につくというのが、僕の考えです。
既存の知識の枠組みを活用し、ほんの少しだけ先のことを想像して、それが正しいかどうかを仮説検証し、また前に進む。普通はこれで充分でしょう。
それは普通の勉強をしっかり頑張った先にある世界です。
まだ反論があるかもしれません。
「ほんの少しだけ先のことを想像する」にも個人差があるのではないかと。
確かにあります。
それもかなりの個人差があります。
しかし、僕はこれを「発想力」や「創造力」の有無ではなく、問題意識や責任感や使命感の問題だと考えています。
経営者を見ていれば分かります。
彼らが新しいことをどんどん思いつくのはやはり、いつも自分の会社の事を考えているからではないでしょうか?
おそらく、「発想力」に大きな個人差はありません(天才は別として)。
四六時中その問題について考えていれば、誰にでも多くの気付きや思いつきはあるものです。
日常、目にする光景の中に、そのような個人差があるとすれば、大部分は仕事への問題意識のレベルの差ではないかと僕は思います。

それを「頭の良さ」という便利な言葉で片付けてしまうのはいかがなものかと思うわけです。

日本人に「創造力」はない? [勉強の役割]


こんにちは。
今日は「発想力(≒創造力)」について考えてみたいと思います。
仕事をしていると、次から次へと普通の人が思いつかないようなアイデアを出す人がいますね。
社会に出ると、こういう人は一般的に「頭が良い」と認識されることが多いようです。
ところが、学校ではどうでしょうか?
学校のテストで「発想力」を問われることはあまりありませんね。
お決まりの解答にきちんと答えることが出来れば、それでOKです。
つまり「発想力」に関してはゼロでも、テストで高得点を取ることは可能なわけです。
5科の試験評価に関して言えば、「発想力」は除外して考えられている。
「発想力」を「創造力」と置き換えてもいいのでしょうが、ここは日本の学校教育における最大のウィークポイントのように思われています。
個性を重視する欧米の学校との違いだと・・・。
ゆえに日本人には「創造力」が欠けるといった議論にも結びつくことがあるようです。
さて、実際のところはどうなのでしょうか?
この答えは、「創造力」をどう定義するかによって異なります。
普通に考えるなら、今のところ、日本人の「創造力」は国際的に見て高い水準にあると言えます。
その根拠は「国際特許出願件数」です。
2009年の日本の特許出願件数は2万9802件で、これは世界第二位の水準です。一位はアメリカの5万3521件ですが、人口が日本の3倍近くあるので、それを考慮に入れると同じ土俵で比較は出来ません。
つまり、日本人は「創造力」豊かな国民なのです。
その割に、日本人は「創造力」に富んだ国民だというイメージはありませんね。
僕はその理由を以下の二つの原因と捉えています。
第一に、「斬新なアイデア」や「遊び心」の感じられる製品やサービスが少ないこと。
第二に、これは日本人の特質なのかもしれませんが、すでにあるものを改良したり、機能の付加をすることに強みがあり、新しいものを創り出すのは苦手だということ。
高度成長期には、車や家電など当時の先進諸国が作っていたものをそのまま追いかければ良かったのですが、それらの市場がすべて飽和状態になると、急に日本経済は停滞してしまいました。
その状態がかれこれ20年近く続いているわけですから、これは深刻な事態です。
「創造力」をそうした側面から見れば、日本人には創造力はないということになります。
これは、たしかに詰め込み型教育の弊害かもしれませんが、僕はまた別の意見も持っています。
それは、日本が島国であるということ。
ほとんどのアイデアというものは、ゼロから生み出されるわけではありません。
過去のパターンの新しい組合せや、意見と意見のぶつかり合いが偶然に生み出す産物なんですね。
つまり、ほとんどの発明は、一部の天才がぱっと思いついたものではないということです。
※天才的なひらめきに頼るしかないというのであれば、日本のものづくりの未来は(産まれるかどうかすらわからない)天才の登場に期待するしかないということになります。
斬新なアイデアが生まれやすい環境とはどんな環境か?
それは、先の条件に「多様性」が加わった環境だと僕は考えています。
一つの会議で例えるなら、人種も、信仰する宗教も、価値観も、受けてきた教育も、学科の専攻も全く違う人たちが一つの目的に向かって、好きなことを言い合う会議だと思うのです。
だとすれば、アメリカというのはまさにそういう国だと思いませんか。
電球、電話、自動車、冷蔵庫(製品化)、電子レンジ、洗濯機、パソコン・・・
考えてみれば、現代社会を取り囲む製品のほとんどはアメリカで産まれています。
それを小型化したり、使いやすくしたのは日本を初めとする世界中の国々ですが、アイデアそのものを生み出したのはアメリカです。
そうした発明を生み出す背景が「多様性」にあるとしたら、単一民族で人々の交流が少ない日本はこの点において大変不利な立場にあることになります。
昨秋ハーバード大学へ入学した日本人留学生は1名だという記事を新聞でよく目にしました。
内向き志向が今後ますます強まれば、世界中の人たちに歓迎されるような革新的な発明は、この国からは生まれなくなることでしょう。
日本の進化が「ガラパコス」と揶揄されるのもそんなところに原因があるように思います。
まぁ、それはともかく・・・
会社で日常的に求められる「創造力」は、歴史的な大発明を生み出すようなものではありません。
今あるものに、ほんの少しの工夫を加えた程度のアイデアで充分です。
生活様式を一変するような発明など、そう頻繁に生まれるわけではありませんから。
そういう意味では、先に述べた通り、「国際特許出願件数」の多い日本は優秀です。
しかし、少し心配な点もあります。
下のデータを見てください。

010.gif
資料:WIPO「Patent Applications by Office 1995 to 2006」

「国際特許出願数」のデータではなく、しかも古いデータで申し訳ないのですが、日本における特許出願件数が横ばい、そしてその他の国の件数が増加傾向にあることが読み取れます。
つまり、この点における国際競争力を失いつつあるんですね。
これに関しては、非常に強い危機感を感じています。
そして、そうなりつつある大きな原因の一つが教育です。
「読み・書き・そろばん」に代表される詰め込み型の教育が、日本人の「創造力」に大きく寄与していたと僕は考えています。
マイクロソフトのビルゲイツや、Appleのスティーブジョブスを育てるような教育制度は日本の風土や国民性に合っていないような気がするのです。
破天荒な型破り生徒を育てるやり方ではなく、日本人はあくまでも優等生型でいくべきだというのが僕自身の見解です。
すでにあるものを徹底的に磨き上げていくタイプの「創造力」ですね。
日本の芸事の世界には、「修(守)・破・離」という教えがあります。
世阿弥が生み出した言葉だと言われていますが、これは、先人の教えを忠実に修め(守り)、その教えに自分なりの工夫を加えて破り、最後に先人の教えから離れて独自の境地を開拓していくという意味です。
これこそ、日本式の発想力の磨き方です。
日本という国は昔からそういうことが得意なのです。
日本語という言語ひとつ見ても、それが分かります。
カタカナなんて、素晴らしい工夫ですね。
「可口可楽(コカコーラ)」なんてどう考えても使いにくいと思いませんか?
先人が平仮名やカタカナというものを編み出していなければ、今頃私たちは全ての外来語を漢字で覚えなくてはならなかったわけですから大変ですよ。
世界中の良いものをアレンジして、使いやすいようにしてしまうのが日本の強みなんですね。
こうした「創造力」の原点にあるのが、「修破離」です。
「修破離」において、特に重要なのが「修」の段階、つまり先人の教えを忠実に修めることとされています。
ものづくりなどにおいて、先人の教えを忠実に修めるとはどういうことでしょうか?
まずは学問の基礎を固めることですね。
学問の基礎とは何でしょうか?
このブログで何回も書いているとおり、「読み、書き、計算」です。
昔なら、「読み、書き、そろばん」です。
なぜそう考えるのかと言えば、歴史がそれを証明しているからです。
明治維新、高度成長期・・・。
貧弱な大地に、ほとんどの天然資源を持たない国が世界史上の奇跡を二回も演じました。
繰り返しになりますが、そうなった理由に日本の旧来型の詰め込み教育が大きく寄与していたことに僕は疑いを持っていません。
子供は「読み、書き(暗記力)、計算力」を徹底的に鍛えて、社会に出る日に備えるべきなのです。

話が広がりすぎてしまいました・・・。
今日は、学生時代の「頭の良さ」と社会に出てからのそれはなぜ実感がずれるのか?という事を「発想力」や「創造力」という観点から考えてみる予定でしたが、それは次回に行わせていただくことにいたします。

社会人の「頭の良さ」と学生の「頭の良さ」は違う? [勉強の役割]


よく言われる言葉の一つに「学校の勉強は社会で役に立たない」というものがあります。
そうは思わないからこうしたブログを書いているのには違いないのですが、学生時代に成績が悪かったにも関わらず、社会に出て活躍している方が大勢いるのは紛れもない事実です。
そういう方がいるのは何もスポーツや芸術といった分野に限りません。
一般的に「頭を使う」とされている職業の中にも多くいらっしゃいます。
人によっては高校卒の叩き上げの社長が、一流大学を卒業した部下に対して「ほんとに頭悪いな!!」と罵倒しているような場面を目にすることもあるかもしれません。
これはいったいどういうことなのでしょう?
今日は、仕事で必要とされる「頭の良さ」と、学力で測られる「頭の良さ」の相違点と類似点について考えてみたいと思います。
仕事で求められる「頭の良さ」とは何でしょう?
色々あるのですが、突き詰めて考えれば、僕は以下3点に集約されると考えています。
①論理的思考能力(ロジカルシンキング)
②コミュニケーション能力(語学力を含む)
③発想力・創造力(クリエイティブシンキング)
これらの能力が高い人間の「頭が良い」とされることが多いように思います。
上の能力に加えて、「知識」、「実行力」、「体力」、「熱意」、「正しい信念」を備えた人間が、総じて仕事での評価が高くなるように思います。
「正しい信念」という少し曖昧なものが出てきました。これを言葉で説明するのは難しいのですが、「人として正しい心のあり方」と捉えてもらえば結構です。
「正しい心のあり方」とは何か宗教じみていますが、その捉え方で間違いではありません。
宗教でもいいのです。
少し余談に入ります。
新渡戸稲造が「武士道」を著したのは1899年のことです。「武士道」を執筆したきっかけは同書冒頭に出てきますが、知り合いの外国人と散歩の時、たまたま宗教のことに話がおよびました。
外国人いわく、「あなたの国の学校の宗教教育は?」という質問に対し、新渡戸が「ありません」と答えると、外国人は非常に驚き、「宗教なし!それでどうやって道徳教育が出来るのか」と繰り返し言われたそうです。その反応に新渡戸は即答することが出来ませんでした。
その経験が「武士道」の執筆につながるわけです。
ほとんどの場合、外国人の道徳観念の根幹にあるのは、宗教です。
キリスト教であり、イスラム教であり、ヒンドゥー教です。
当時の日本人の心の中にある道徳観念が「武士道」だとすれば、今の日本人に必要な道徳観念は何でしょうか?
僕はこれが「正しい信念」だと理解しています。
「正しい信念」を身につけるためには、キリスト教徒が聖書を読むように、正しい事を書かれた書物を何回も読むことが大切だと考えています。
何が正しいのかを判断するのは難しいです。
自分では出来ませんし、世間の評価も当てになりません。
確実なのは、「時の洗礼」を受けたものでしょう。
何千年、何百年、何十年と数多くの人に読まれて残っている書物であれば、大きな間違いはしないはずです。
新刊の自己啓発本はこうした読み方をするのには、全く不向きです。

さて、話を元に戻さなくてはなりません。
「頭の良さ」の三要素に、+アルファ(知識、実行力、体力、熱意、正しい信念)を加えた人間が社会で活躍すると書きました。
三要素以外のお話はここでは横においておきましょう。
もう一度三要素を整理します。
①論理的思考能力(ロジカルシンキング)
②コミュニケーション能力(語学力を含む)
③発想力・創造力(クリエイティブシンキング)
この3つですね。
では、学校のテストで問われる「頭の良さ」とは何でしょうか?
これは、過去にも書いてきたとおり、
①読解力
②暗記力
③計算力
の3つです。
基本的には、この3つの能力+アルファで成績は決まります。
+アルファの内容は社会人と同じと言いたいところですが、「正しい信念」は良い成績を取るのには、あまり関係がありません。「知識」は=「暗記力」ですね。
あと、何日か前に書いたとおり、「要領の良さ」は外せない要素です。
こうして見比べてみると、社会で言われる「頭の良さ」と学校で認められる「頭の良さ」にはずいぶん違いがあるようです。
しかし、過去の記事で明らかにしてきたように、それぞれの能力には密接なつながりがあります。まず、数学的思考は曖昧さを許容しません。
社会に出るとわかりますが、仕事が出来ない人、頭の悪い(失礼!)人というのは、得てして考え方が浅いものです。本質の3歩手前くらいで思考停止しているのです。
「まぁ、そういうことだろう」
「きっとこうなるだろう」
「こうであって欲しい」
という希望的観測や中途半端な分析を基に、意思決定をします。
そして、失敗するのです。
数学ではこうした曖昧な解答を許しません。
正解に辿り着くまで粘り強く思考することが求められます。
「A=B=C=D」
のように論理を追って思考できる人だけが、「A=Z」という解を見つけることが出来るのです。
数学で考えることを習慣化している人には、こうした論理展開は難しいことではありません。
ゆえに、数学の勉強は社会に出て役に立つとお話してきました。
ところが、中学校までの数学はこの論理展開があまり難しくありません。
お決まりのロジックを計算ミスせずに追えるかどうかを問うテストです。
結果的に試験の点数は「計算力」に負うところが非常に大きくなります。
論理的思考能力の高い子供でも、「計算力」がなければ高得点は取れないようになっているのです。
感覚的に言えば、中学校までの数学のテストが
計算力8:ロジカルシンキング2
で実力を評価されるのに対し、社会では
計算力1:ロジカルシンキング9
くらいで評価されているような気がします。
これが、学校の「頭の良さ」と、仕事上での「頭の良さ」が区別されてしまう要因の一つ目です。
※ちなみに、高校数学の習練度と、仕事上の「頭の良さ」はある程度の相関関係を示します。
(京大の西村和雄教授の調査結果が有名です。興味がある方は検索してみてください。)
高校数学は、中学数学に比べ、ロジカルシンキング重視傾向が強いので、そうなるのでしょう。

これまで見てきたようにロジカルシンキングは非常に重要です。
この能力が非常に高いと「頭の良い」人材とみなされる傾向が強いです。
しかし、それだけで突出した人材になれるのでしょうか?
上記3つの能力は掛け算の関係にあると僕は考えています。
ロジカルシンキング×コミュニケーション能力×発想力=頭の良さ
となるわけですね。
ということは、ロジカルシンキングだけではもちろん駄目なわけです。
特に「コミュニケーション能力」に欠けていると、文系職では評価ゼロに等しくなってしまいますので、注意が必要です。
では学校の成績とコミュニケーション能力には、どのような関係があるのでしょうか?
次回は「コミュニケーション能力」における実感のズレの原因を検証してみたいと思います。


勉強は不要? [勉強の役割]

5月28日

人はなぜ勉強するのでしょうか?

今日はそんなテーマについて考えてみたいと思います。
そもそも、親が勉強をすることの重要性を心から認識していなければ、子供が心から臨んで勉強するようになるのは無理です。
外的な要因によって(素晴しい仲間や先生に恵まれて)、勉強好きになることはあります。
でも、それって運ですよね?
あなたのお子様が素晴しい先生に巡り会えるとも限らないし、素晴しい友達に恵まれるとも限らない。あなたこそがお子様を確実に良い方向に導くことの出来る存在なのです。
親の力で子供に勉強をさせたい!あなたがそう願うのであれば、あなたが勉強の素晴しさを認識していることはもう当たり前すぎるくらいの前提条件なのです。
ちなみに筆者のスタンスは、「必ずしも勉強は必要ではない」です。
勘違いしないでくださいね。
学習が不要とは言っていません。生きるうえで、何らかの学習は必要です。それを必ずしも五教科の勉強に求めないという意味で、「必ずしも勉強は必要ではない」なのです。
しかし、同時にこのようにも考えています。
将来的にどのように生きていくのかが明確でないと限定するならば、今の日本では勉強を頑張ることほど、分かりやすく単純で確実性のある時間の投資法はないということです。
要するに、何の仕事に就くか分からないのであればとりあえず必死に勉強をしておけ!
という意見です。
ここで一つ大きな問題があります。
五教科の勉強=将来役立つこと の証明は、実はかなり難しいのです。
例えば二次関数が今の生活にどう役立っているのかなんて、普通分かりませんよね?
でも実際には、「過去の大学受験において数学を使った人の年収はそれを使わなかった人の年収の平均値よりも明らかに高い」といったデータも存在しているのです。
これは数学の勉強を頑張った子供が結果的には社会的に成功しているケースが多い(年収が高いことが成功かどうかという議論はさておき)ということを意味しています。
しかし、それがなぜなのかは今一つ分からない。
学歴のような気もするけど、どうもそれだけではないような気がする。
つまり、勉強の必要性については漠然と認識しているけれども、それがなぜ必要なのかという点に関してはあまり分かっていない人が多いのです。
子供はその矛盾をついてきます。
「こんな数式、大人になっても使わない!だってお父さんだって解けてないもん」
とか、
「別に外国に行くわけじゃないし、英語なんて必要ない!」
といったことを言って親を困らせるわけです。
そういった問題を解決するためにも、5教科の勉強が将来にどのように役立っていくのかを親がしっかりと認識しておく必要があるのです。

僕は塾でこのようにお話していました。
「例えば、世の中に何らかのスポーツ選手という仕事しかなかったとするよね?」
「一度も体を動かしたことのない人間がそこで仕事をすることが出来るかな?」
「野球でも何でもいいから、体は動かしておいたほうが良さそうだよね?」
という話をした上で、
「実は世の中のほとんどの仕事は頭を使ってする仕事なんだよ」
「今まで一度も頭を使ったことのない人はどうなるかな?」
と言って子供に説明していました。

説得力はありますが、不十分です。
塾長という肩書きで言うからこそ子供も聞いていますが、普通の人が同じように言っても子供の理解を得るのは難しいかもしれません。
そこで、今後のブログではしばらくの間、五教科の勉強が実社会にどう役立っていくのかという点を証明していきたいと思います。
勉強を頑張る→いい大学に入れる→いい就職先に入れる
という論理は今どきの子供には通用しないのです。

それではまた。
次回、一番重要な「数学」からはじめたいと思います。

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