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要領の悪い子供 [教育全般]


こんにちは。
久しぶりの更新です。
今日は私なりにテストの点数を支える要因について考えてみたいと思います。
一般的に言われる学力でもありませんし、頭の良さや人間力のことでもありません。
国数英理社のテストでどれだけ高い総合点数を取れるか?
ただそれだけに限定したお話です。
結論から言えば、必要な能力は、「読解力」、「暗記力」、「計算力」になります。
これはこのブログでお話してきた通りです。
しかし、それだけでは説明のつかない現象がよく起こります。
つまり、実際のテストの点数は以下の公式で決まります。

「読解力×暗記力×計算力×何らかの要因=テストの点数」

「何らかの要因」にはテスト問題への慣れといった事も含まれるかもしれません。過去問題を何回もやった生徒とそうでない生徒では、点数に開きが出るのは当たり前のお話でしょう。
ここでは話を単純化するために、そうした条件は全て一定と仮定します。
そうしたとき「何らかの要因」は、どのような言葉で説明出来るでしょうか?
表現の曖昧さがあるのは承知の上で、ここではそれを「要領」と定義させていただくことにします。

さて、この「要領の良さ」というのは、便利な言葉で日常生活ではよく耳にします。
大人になってもいますね。
要領の良い人、悪い人。
いい意味だけではなく、否定的な意味合いで使われることも多い言葉です。
「要領がいい」とはそもそもどういうことなのでしょう?
僕はこう考えています。
「手抜きが出来る能力」だと。
だから、あまり良いイメージを持たない人が多いのではないでしょうか?
しかし、要領がいいとは、ただの手抜きではないのです。
本来、求められている成果を出しながら(あるいは出しているように見せながら)、手を抜いているのです。果たしてこれは悪なのでしょうか?
僕は決してそうは思いません。
物事にもよるのでしょうが、テストに限定すれば、要領が良い方がいいに決まっています。
テストでは結果が全てです。
(そのこと自体の是非はこの議題とは異なりますので、触れません)
入試では、一点でも点数の高い生徒がそうでない生徒よりも高く評価されます。
これはとても不公平にも思えますが、視点を変えればとても公平なやり方なのです。
点数によって評価をしないということは、その子供の能力を総合的に判断するということです。
何百人、あるいは何千人もの入学希望者をどうやって総合的に判断するのでしょうか?
テストのような定数化された指標を用いるから、見かけ上の公平性は保たれるのです。
ですので、テストの点数による選別はこれから先もなくならないでしょう。
人気のある学校ほど、多くの学生を公平に評価しなければならないというプレッシャーがあるために、テスト重視の傾向を強めざるを得ないでしょう。
公正な評価がされていないと感じれば、批判が強くなるのがこうした学校だからです。
・・・少し話が脱線しました。
とにかく「要領が良い」のは悪いことではなく、大切なことだということです。
特にテストにおいては。
そして、要領良くやるためには手抜きが出来るということが大切です。
では、結果を変えずに手抜きが出来るようになるには、どうすれば良いのでしょう?

要領の悪い子供というのは、一つ一つの事象をばらばらに捉えています。
例えるなら、頭の中に地図がないんです。
話を分かりやすくするため、問題を出してみます。

例題:次の3点でAからCに最短で到達せよ
(図1)
A        BC

(図2 それぞれの地点を上から見た図)
A        B


          C

上の3点でAからCに行くための最短距離は右下に斜めに進む方法です。
誰にでも分かります。
しかし、図1のイメージしかなく、A→B→Cと習った子供は、A→Cのルートが見えません。
図2のように物事を俯瞰してみれば、誰でもわかることがわかっていないのです。
真っ直ぐに進むことしか習っていない子供の頭の中には図1しかないわけです。
では、どうすれば良いのでしょう?
大切なのは、「本質をつかむこと」と、「俯瞰してみること」です。
この場合、「本質をつかむ」とは、問題の目的を正しく把握せよということです。
問題文に「Bを経由して」と書いてあれば、A→B→Cのルートしかありえません。
この場合、Cに向かうことだけが目的なのですから、何もBを経由する必要はないわけです。
「俯瞰してみる」とは、図2が見えるということです。
しかし、全体を俯瞰して眺めることでA→Cのショートカットルートが見えてきます。

実際のテストに話を戻すと、要領の悪い子供はまずテストの目的を正しく理解していません。
テストの目的とは、高い点数を取ることなんです。
そこが本質です。
特に入試においてはそうです。
言い訳をしたって誰も助けてはくれないのですから当たり前です。
だから、高い点数を取るために何をしなければならないのか?という発想から行動を開始しなければ高い点数なんて取れるはずがないんです。
高い点数を取るために、前日にやるべき事が「ノートまとめ」なはずはないですよね?
そこに至る過程が大事だ!とか何とか言ってると、要領の良い子供にはなれません。
結果が全て。結果主義です。
(繰り返しますが、そのこと自体の是非はここでは論じません)
結果=目的を正しく理解した後は、全体を俯瞰して見ることです。
そこにいたるルートは一つではないはずです。
「木を見て森を見ず」が一番いけません。
近道を発見するためには、あらゆる可能性について考えることです。
柔軟な発想力も求められます。
ただ、残念なことにこの能力は一朝一夕では身につきません。
子供の視野を広げてくれる存在が身近にいないといけないのです。
だから、親は子供に対して常日頃から色々な問いかけをしてあげることが大切なんです。
「中国の問題についてどう思う?」
「鯨を食べることについてはどう思う?」
何でもいいのですが、物事を色々な側面から考えさせてあげることが大切です。

この傾向。
お金が絡むビジネスの世界ではより顕著です。
そこに至る努力の過程よりも結果重視。
要領の悪すぎる人間は現代社会では生き残れません。

数学は怖くない [数学]


こんにちは。
今日は数学の勉強法です。
過去の記事でも書いてきましたが、数学を難しく考える必要はありません。
数学が得意な人のお話はここでは別にしましょう。
数学が苦手な人はこう考えるべきなんです(中学生まで限定)。

数学力とは「計算力」と「公式と解法の暗記」である。

これならわかりやすい。
後は、それぞれ個別に能力を高めればよいだけです。
これで定期テストなら90点。
模試なら偏差値60までは楽に到達します。
「計算力」については、過去の記事を参考にしていただくとして、「公式と解法の暗記」についてもう少しお話を進めてみたいと思います。
まず、暗記系の科目の鉄則は同じ問題を何回も解くことです。
数学とて例外ではありません。
苦手なら、なおのこと同じ問題集を何回も使うべきです。
そして問題集を汚しましょう。
汚すといっても、出した答えをそこに書くようなことをしてはいけません。
そんなことをしたら、もう一度解けなくなってしまいます。
問題集には、以下の内容を書き込むようにしてください。
①問題を解いた日付
②正解したかどうか
③解答に要した時間
これを問題の側のすぐわかるところに書いておきます。
そして、二回目に解くときには、それを基準にして目標タイムを設定するのです。
そして、「解答と解説」には自分の言葉で自分なりに解説の補足を書きます。
「解答と解説」を読んだだけですぐ理解出来るのであれば、この補足は不要です。
繰り返しますが、この補足は「自分の」言葉で書くようにさせてください。
未来の自分自身に向かって話しかけるようにして書かせます。
書くための空欄が不足していたら、付箋などでスペースを増やします。
それでも足りなければ、ノートに書きますが、ノートに書くと次に勉強するときに面倒になるので、なるべくテキストの解説欄内にまとめた方が良いでしょう。
補足で書く内容はこんなイメージです。

「ここで、いきなりX=2ってなってるのがわかりにくいけど、ここを詳しく説明すると・・・」
「この解き方はすごくわかりにくかった。○○先生が教えてくれたやり方だと・・・」
「解説の書き方がまわりくどすぎ!これは要するに・・・ということ」

「解答と解説」を補足しておけば、次回は一人で解くことが出来るようになります。
人によって「ここがわからない」というポイントは違うので、自分で書くことが大切です。
このように、自分の問題集を自分なりのオリジナルテキストにしていきます。
何回も解いて、実力がつけば、「こんな問題にこんなに時間がかかったんだ・・」とか「(過去の自分が)誰にでもわかるようなことを偉そうに解説してるな」のように、自分自身の成長を自覚出来るようになります。
数学が苦手な生徒にとっては、これが大切なんですね。
わかるようになってきたという自信が、難しい問題への挑戦につながるからです。
数学が苦手な子供を何百人と見てきたからわかりますが、苦手な子供の大半は自分がそんな難しい問題を解けるはずがないと最初からあきらめているのです。
本当は日記をつけるのが一番良いのかもしれません。
でも、日記は継続するのが大変です。
テキストに上のような情報を書き込むことで、それを代用するわけですね。
誰にでも出来る簡単な仕掛けですので、ぜひ試してみてください。

社会人の「頭の良さ」と学生の「頭の良さ」は違う? [勉強の役割]


よく言われる言葉の一つに「学校の勉強は社会で役に立たない」というものがあります。
そうは思わないからこうしたブログを書いているのには違いないのですが、学生時代に成績が悪かったにも関わらず、社会に出て活躍している方が大勢いるのは紛れもない事実です。
そういう方がいるのは何もスポーツや芸術といった分野に限りません。
一般的に「頭を使う」とされている職業の中にも多くいらっしゃいます。
人によっては高校卒の叩き上げの社長が、一流大学を卒業した部下に対して「ほんとに頭悪いな!!」と罵倒しているような場面を目にすることもあるかもしれません。
これはいったいどういうことなのでしょう?
今日は、仕事で必要とされる「頭の良さ」と、学力で測られる「頭の良さ」の相違点と類似点について考えてみたいと思います。
仕事で求められる「頭の良さ」とは何でしょう?
色々あるのですが、突き詰めて考えれば、僕は以下3点に集約されると考えています。
①論理的思考能力(ロジカルシンキング)
②コミュニケーション能力(語学力を含む)
③発想力・創造力(クリエイティブシンキング)
これらの能力が高い人間の「頭が良い」とされることが多いように思います。
上の能力に加えて、「知識」、「実行力」、「体力」、「熱意」、「正しい信念」を備えた人間が、総じて仕事での評価が高くなるように思います。
「正しい信念」という少し曖昧なものが出てきました。これを言葉で説明するのは難しいのですが、「人として正しい心のあり方」と捉えてもらえば結構です。
「正しい心のあり方」とは何か宗教じみていますが、その捉え方で間違いではありません。
宗教でもいいのです。
少し余談に入ります。
新渡戸稲造が「武士道」を著したのは1899年のことです。「武士道」を執筆したきっかけは同書冒頭に出てきますが、知り合いの外国人と散歩の時、たまたま宗教のことに話がおよびました。
外国人いわく、「あなたの国の学校の宗教教育は?」という質問に対し、新渡戸が「ありません」と答えると、外国人は非常に驚き、「宗教なし!それでどうやって道徳教育が出来るのか」と繰り返し言われたそうです。その反応に新渡戸は即答することが出来ませんでした。
その経験が「武士道」の執筆につながるわけです。
ほとんどの場合、外国人の道徳観念の根幹にあるのは、宗教です。
キリスト教であり、イスラム教であり、ヒンドゥー教です。
当時の日本人の心の中にある道徳観念が「武士道」だとすれば、今の日本人に必要な道徳観念は何でしょうか?
僕はこれが「正しい信念」だと理解しています。
「正しい信念」を身につけるためには、キリスト教徒が聖書を読むように、正しい事を書かれた書物を何回も読むことが大切だと考えています。
何が正しいのかを判断するのは難しいです。
自分では出来ませんし、世間の評価も当てになりません。
確実なのは、「時の洗礼」を受けたものでしょう。
何千年、何百年、何十年と数多くの人に読まれて残っている書物であれば、大きな間違いはしないはずです。
新刊の自己啓発本はこうした読み方をするのには、全く不向きです。

さて、話を元に戻さなくてはなりません。
「頭の良さ」の三要素に、+アルファ(知識、実行力、体力、熱意、正しい信念)を加えた人間が社会で活躍すると書きました。
三要素以外のお話はここでは横においておきましょう。
もう一度三要素を整理します。
①論理的思考能力(ロジカルシンキング)
②コミュニケーション能力(語学力を含む)
③発想力・創造力(クリエイティブシンキング)
この3つですね。
では、学校のテストで問われる「頭の良さ」とは何でしょうか?
これは、過去にも書いてきたとおり、
①読解力
②暗記力
③計算力
の3つです。
基本的には、この3つの能力+アルファで成績は決まります。
+アルファの内容は社会人と同じと言いたいところですが、「正しい信念」は良い成績を取るのには、あまり関係がありません。「知識」は=「暗記力」ですね。
あと、何日か前に書いたとおり、「要領の良さ」は外せない要素です。
こうして見比べてみると、社会で言われる「頭の良さ」と学校で認められる「頭の良さ」にはずいぶん違いがあるようです。
しかし、過去の記事で明らかにしてきたように、それぞれの能力には密接なつながりがあります。まず、数学的思考は曖昧さを許容しません。
社会に出るとわかりますが、仕事が出来ない人、頭の悪い(失礼!)人というのは、得てして考え方が浅いものです。本質の3歩手前くらいで思考停止しているのです。
「まぁ、そういうことだろう」
「きっとこうなるだろう」
「こうであって欲しい」
という希望的観測や中途半端な分析を基に、意思決定をします。
そして、失敗するのです。
数学ではこうした曖昧な解答を許しません。
正解に辿り着くまで粘り強く思考することが求められます。
「A=B=C=D」
のように論理を追って思考できる人だけが、「A=Z」という解を見つけることが出来るのです。
数学で考えることを習慣化している人には、こうした論理展開は難しいことではありません。
ゆえに、数学の勉強は社会に出て役に立つとお話してきました。
ところが、中学校までの数学はこの論理展開があまり難しくありません。
お決まりのロジックを計算ミスせずに追えるかどうかを問うテストです。
結果的に試験の点数は「計算力」に負うところが非常に大きくなります。
論理的思考能力の高い子供でも、「計算力」がなければ高得点は取れないようになっているのです。
感覚的に言えば、中学校までの数学のテストが
計算力8:ロジカルシンキング2
で実力を評価されるのに対し、社会では
計算力1:ロジカルシンキング9
くらいで評価されているような気がします。
これが、学校の「頭の良さ」と、仕事上での「頭の良さ」が区別されてしまう要因の一つ目です。
※ちなみに、高校数学の習練度と、仕事上の「頭の良さ」はある程度の相関関係を示します。
(京大の西村和雄教授の調査結果が有名です。興味がある方は検索してみてください。)
高校数学は、中学数学に比べ、ロジカルシンキング重視傾向が強いので、そうなるのでしょう。

これまで見てきたようにロジカルシンキングは非常に重要です。
この能力が非常に高いと「頭の良い」人材とみなされる傾向が強いです。
しかし、それだけで突出した人材になれるのでしょうか?
上記3つの能力は掛け算の関係にあると僕は考えています。
ロジカルシンキング×コミュニケーション能力×発想力=頭の良さ
となるわけですね。
ということは、ロジカルシンキングだけではもちろん駄目なわけです。
特に「コミュニケーション能力」に欠けていると、文系職では評価ゼロに等しくなってしまいますので、注意が必要です。
では学校の成績とコミュニケーション能力には、どのような関係があるのでしょうか?
次回は「コミュニケーション能力」における実感のズレの原因を検証してみたいと思います。


コミュニケーション能力は学校のテストで測れるか? [コミュニケーション]


こんにちは。
10月になって急に息を吹き返したかのように、ブログを頻繁に更新しています。

社会人と学生の「頭の良さ」の違いについて、検証してきました。
その認識のギャップが起きる一点目の要因として、ロジカルシンキングと数学との関係について書いたのが昨日の内容です。
今日は、「コミュニケーション能力」におけるギャップについて考えたいと思います。
※「コミュニケーション能力」には語学力も含んでいますが、それは今日のお話からは除外して考えていきます。

コミュニケーションとは、他者と「何らかの接触を通じて」感情や意志や情報の伝達を行うことです。
最も一般的な手段が「言語」です。
話し言葉や文章などを通じて、私たちは自分の考えや思いを他者に伝えています。
あるいは他者から受け取っています。
しかし、コミュニケーション手段は「言語」に限りません。
むしろ「言語」以外の要素に負う部分が大きいと言えるでしょう。
怪しげなセミナーに行くと、よく「メラビアンの法則」というものが出てきます。
セミナー講師がそこで口にするのが、「コミュニケーションにおける影響の程度は、言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合を占めています」というお話なのですが、そんな馬鹿なお話はありません。
メラビアンがどんな実験をして、この数字を出したのかを調べれば、この説明は明らかに実験内容の拡大解釈であり、理論的な正確性を欠いたものだということがわかります。
(話の本題とそれるのでここでは触れませんが・・・)
しかし、この「(日本版)メラビアンの法則」はインチキだとしても、コミュニケーションを構成する要素が「言語」に限らないというのは本当です。

「怒ってるやろ?」
「怒ってないって!!!!!!(明らかに怒ってる)」

こんな会話は日常的にありえますからね。
20世紀最大の経営学者と言われるピータードラッカーさんはこうおっしゃっています。
「本当のコミュニケーションとは、情報の交換ではなく、知覚(感情)の共有だ」
またこうもおっしゃっておられます。
「コミュニケーションの向上は送り手ではなく、受け手によってもたらされる」
さらに、さらに・・こんなこともおっしゃっておられます。
「コミュニケーションで一番大切なことは、相手が口にしていない言葉を聞き分ける能力である」

・・・・・もう一度まとめて繰り返します。

「本当のコミュニケーションとは、情報の交換ではなく、知覚(感情)の共有だ」
「コミュニケーションの向上は送り手ではなく、受け手によってもたらされる」
「コミュニケーションで一番大切なことは、相手が口にしていない言葉を聞き分ける能力である」

さすが、ドラッカーさんです。
僕が書きたいことをたった3つの言葉に集約してくれました。
これが、コミュニケーションの本質です。
これらを前提とした上で、言葉や文章、あるいは身振り手振り、その他あらゆる手段を通じて、お互いの共通認識を作り出すことの出来る人間をコミュニケーション能力が高いと言うのですね。
上の言葉に、もう少しだけ説明を補足しておきましょう。

第一に、「情報の交換ではなく、知覚の共有」とはどういうことでしょう?
これは相手と感情レベルで理解し合えということです。
「嬉しい」、「怒り」、「哀しい」、「楽しい」・・
こうした感情を相手と共有できることが大切です。
コミュニケーション能力が低い人間というのは空気が読めません。
空気というのは、場の中にいる人間が作り出す知覚レベルの共通認識のことです。
それを正しく感じ取って共有することが出来る人間であることが大切です。
例えば、誰かのお子様が交通事故で急に亡くなったとしましょう。
そのお葬式で出されたお弁当をむしゃむしゃと全部食べる人。
こういう人は空気が読めない人です。
遺族の気持ちを汲み取って、その感情を共有出来る人ならこういうことはしないです。
例え、自分がその子供に会った事がなくても、悲しくならなくてはなりません。
そのためには、突然子供を亡くしてしまうという悲しみがどれほどのものか、想像できるだけの想像力が必要になります。
はい。ここで大切な事を書きました。
「想像力」というのはコミュニケーションにおける重要なキーワードになります。
あと30秒、覚えておいてください。

第二に、「送り手ではなく、受け手」とはどういうことでしょう?
これは比較的簡単に説明することが出来ます。
例えば、「日本経済の展望」というテーマについて講演会を頼まれたとします。
どこに行っても同じようにしか話が出来ない人はコミュニケーション能力の低い人です。
なぜなら、対象とする相手によって、使うべき言葉、たとえ話、話すスピード、声量・・すべて変化するはずだからです。
どんなに素晴らしい話でも相手が理解していなければ、何の役にも立ちません。
コミュニケーションの成否は送り手ではなく、受け手が決めるのです。
そうした意味で、本当に上手な伝え手というのは、極めて稀です。
相手に応じて変幻自在な伝え手こそ、コミュニケーション上手な人間であると言えるでしょう。

第三に、「相手が口にしていない言葉」についてです。
ここで先に述べた「想像力」が必要になります。
「想像力」がなければ、相手の言葉の背景を知ることが出来ません。
「怒ってないって!!!!!」
という言葉の裏側はこちらが想像するしかないのですから・・。
相手の真意を想像し、それに応じた対応をするのがコミュニケーションの原則になります。
「怒ってないって!!!!!」
と言われて、
「それは良かった。じゃ早速お願いがあるんだけど・・」
とはなりませんよね?

さて、ここまでのお話でコミュニケーションで重要なのは、「言語能力」に限らないということを説明させていただけたかと思います。
もうお分かりだと思いますが、学校のテストで問われるのは「言語能力」に限定されています。
これが学校の「頭の良さ」と、仕事上での「頭の良さ」が区別されてしまう要因の二つ目です。
コミュニケーションにおける「想像力」の欠如は文系職の社会人としては致命傷です。
これがないと、いくら読解力を測る「国語」の成績が優秀でも、「頭の良い」人材とはみなされません。「国語」のテストではこの能力はほとんど測れないわけですから当然です。

ただ、「国語」の名誉のために申し上げておけば、それは必要なことなのです。
なぜなら、日本語という言語を正確に理解する力を育てるのが「国語」の勉強だからです。
言葉を正しく理解する能力があるという前提で、状況に応じて、その言葉の裏側も想像することも出来るというのが大人のコミュニケーション能力なのです。
ゆえに、「国語」の勉強を通じて「読解力」を高めることが無駄だという結論にはいたりません。
言葉を正しく理解出来てこそ、その先があるわけですから。
「国語」の勉強は今も昔と変わらず重要なのです。

日本人に「創造力」はない? [勉強の役割]


こんにちは。
今日は「発想力(≒創造力)」について考えてみたいと思います。
仕事をしていると、次から次へと普通の人が思いつかないようなアイデアを出す人がいますね。
社会に出ると、こういう人は一般的に「頭が良い」と認識されることが多いようです。
ところが、学校ではどうでしょうか?
学校のテストで「発想力」を問われることはあまりありませんね。
お決まりの解答にきちんと答えることが出来れば、それでOKです。
つまり「発想力」に関してはゼロでも、テストで高得点を取ることは可能なわけです。
5科の試験評価に関して言えば、「発想力」は除外して考えられている。
「発想力」を「創造力」と置き換えてもいいのでしょうが、ここは日本の学校教育における最大のウィークポイントのように思われています。
個性を重視する欧米の学校との違いだと・・・。
ゆえに日本人には「創造力」が欠けるといった議論にも結びつくことがあるようです。
さて、実際のところはどうなのでしょうか?
この答えは、「創造力」をどう定義するかによって異なります。
普通に考えるなら、今のところ、日本人の「創造力」は国際的に見て高い水準にあると言えます。
その根拠は「国際特許出願件数」です。
2009年の日本の特許出願件数は2万9802件で、これは世界第二位の水準です。一位はアメリカの5万3521件ですが、人口が日本の3倍近くあるので、それを考慮に入れると同じ土俵で比較は出来ません。
つまり、日本人は「創造力」豊かな国民なのです。
その割に、日本人は「創造力」に富んだ国民だというイメージはありませんね。
僕はその理由を以下の二つの原因と捉えています。
第一に、「斬新なアイデア」や「遊び心」の感じられる製品やサービスが少ないこと。
第二に、これは日本人の特質なのかもしれませんが、すでにあるものを改良したり、機能の付加をすることに強みがあり、新しいものを創り出すのは苦手だということ。
高度成長期には、車や家電など当時の先進諸国が作っていたものをそのまま追いかければ良かったのですが、それらの市場がすべて飽和状態になると、急に日本経済は停滞してしまいました。
その状態がかれこれ20年近く続いているわけですから、これは深刻な事態です。
「創造力」をそうした側面から見れば、日本人には創造力はないということになります。
これは、たしかに詰め込み型教育の弊害かもしれませんが、僕はまた別の意見も持っています。
それは、日本が島国であるということ。
ほとんどのアイデアというものは、ゼロから生み出されるわけではありません。
過去のパターンの新しい組合せや、意見と意見のぶつかり合いが偶然に生み出す産物なんですね。
つまり、ほとんどの発明は、一部の天才がぱっと思いついたものではないということです。
※天才的なひらめきに頼るしかないというのであれば、日本のものづくりの未来は(産まれるかどうかすらわからない)天才の登場に期待するしかないということになります。
斬新なアイデアが生まれやすい環境とはどんな環境か?
それは、先の条件に「多様性」が加わった環境だと僕は考えています。
一つの会議で例えるなら、人種も、信仰する宗教も、価値観も、受けてきた教育も、学科の専攻も全く違う人たちが一つの目的に向かって、好きなことを言い合う会議だと思うのです。
だとすれば、アメリカというのはまさにそういう国だと思いませんか。
電球、電話、自動車、冷蔵庫(製品化)、電子レンジ、洗濯機、パソコン・・・
考えてみれば、現代社会を取り囲む製品のほとんどはアメリカで産まれています。
それを小型化したり、使いやすくしたのは日本を初めとする世界中の国々ですが、アイデアそのものを生み出したのはアメリカです。
そうした発明を生み出す背景が「多様性」にあるとしたら、単一民族で人々の交流が少ない日本はこの点において大変不利な立場にあることになります。
昨秋ハーバード大学へ入学した日本人留学生は1名だという記事を新聞でよく目にしました。
内向き志向が今後ますます強まれば、世界中の人たちに歓迎されるような革新的な発明は、この国からは生まれなくなることでしょう。
日本の進化が「ガラパコス」と揶揄されるのもそんなところに原因があるように思います。
まぁ、それはともかく・・・
会社で日常的に求められる「創造力」は、歴史的な大発明を生み出すようなものではありません。
今あるものに、ほんの少しの工夫を加えた程度のアイデアで充分です。
生活様式を一変するような発明など、そう頻繁に生まれるわけではありませんから。
そういう意味では、先に述べた通り、「国際特許出願件数」の多い日本は優秀です。
しかし、少し心配な点もあります。
下のデータを見てください。

010.gif
資料:WIPO「Patent Applications by Office 1995 to 2006」

「国際特許出願数」のデータではなく、しかも古いデータで申し訳ないのですが、日本における特許出願件数が横ばい、そしてその他の国の件数が増加傾向にあることが読み取れます。
つまり、この点における国際競争力を失いつつあるんですね。
これに関しては、非常に強い危機感を感じています。
そして、そうなりつつある大きな原因の一つが教育です。
「読み・書き・そろばん」に代表される詰め込み型の教育が、日本人の「創造力」に大きく寄与していたと僕は考えています。
マイクロソフトのビルゲイツや、Appleのスティーブジョブスを育てるような教育制度は日本の風土や国民性に合っていないような気がするのです。
破天荒な型破り生徒を育てるやり方ではなく、日本人はあくまでも優等生型でいくべきだというのが僕自身の見解です。
すでにあるものを徹底的に磨き上げていくタイプの「創造力」ですね。
日本の芸事の世界には、「修(守)・破・離」という教えがあります。
世阿弥が生み出した言葉だと言われていますが、これは、先人の教えを忠実に修め(守り)、その教えに自分なりの工夫を加えて破り、最後に先人の教えから離れて独自の境地を開拓していくという意味です。
これこそ、日本式の発想力の磨き方です。
日本という国は昔からそういうことが得意なのです。
日本語という言語ひとつ見ても、それが分かります。
カタカナなんて、素晴らしい工夫ですね。
「可口可楽(コカコーラ)」なんてどう考えても使いにくいと思いませんか?
先人が平仮名やカタカナというものを編み出していなければ、今頃私たちは全ての外来語を漢字で覚えなくてはならなかったわけですから大変ですよ。
世界中の良いものをアレンジして、使いやすいようにしてしまうのが日本の強みなんですね。
こうした「創造力」の原点にあるのが、「修破離」です。
「修破離」において、特に重要なのが「修」の段階、つまり先人の教えを忠実に修めることとされています。
ものづくりなどにおいて、先人の教えを忠実に修めるとはどういうことでしょうか?
まずは学問の基礎を固めることですね。
学問の基礎とは何でしょうか?
このブログで何回も書いているとおり、「読み、書き、計算」です。
昔なら、「読み、書き、そろばん」です。
なぜそう考えるのかと言えば、歴史がそれを証明しているからです。
明治維新、高度成長期・・・。
貧弱な大地に、ほとんどの天然資源を持たない国が世界史上の奇跡を二回も演じました。
繰り返しになりますが、そうなった理由に日本の旧来型の詰め込み教育が大きく寄与していたことに僕は疑いを持っていません。
子供は「読み、書き(暗記力)、計算力」を徹底的に鍛えて、社会に出る日に備えるべきなのです。

話が広がりすぎてしまいました・・・。
今日は、学生時代の「頭の良さ」と社会に出てからのそれはなぜ実感がずれるのか?という事を「発想力」や「創造力」という観点から考えてみる予定でしたが、それは次回に行わせていただくことにいたします。

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